夏のオープントラカレ講座より|体験談|ヒッポファミリークラブ
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体験談・メンバーの声

夏のオープントラカレ講座より日常活動

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安福佳奈子 / 神奈川県・大学2年生

夏のオープントラカレ講座に参加した大学生の感想文を紹介します。

藤村靖先生「つりあいと安定」~抽象性が人間の本質である~
つりあいと安定というのは相反するものではなく、見る範囲を変えれば安定にもなるし、不安定にもなる。しかし、どんな物事にも基本形に「正弦波」が存在し、それを踏まえた上での変化系であるということを様々な例をとって話してくださいました。

今回の講義のキーワードの一つだった「正弦波」に、私はとても興味を持ちました。
*ぶらんこの揺れは振動現象の一つ。位置エネルギーと運動エネルギーの二つのエネルギーのやりとりは “波形”として見ることができ、一番簡単な形で性質は何も変わらないのが“正弦波”である。複雑な波形も、高い周波数の正弦波形の重ね合わせとして表せる。周期的に繰り返すと周波数が変わるが、どの波形でも基本は正弦波であり、周期は同じでも波形は違う。物事の基本形ともいえる正弦波の重なりですべての変化は起きているという。世の中の物事の移り変わりは、正弦波の重なりでできている。
このお話から、身の回りのたくさんのことが“正弦波”にリンクしました。
まず、正弦波の集まりで大きな波ができる...私自身がYLのときに書いた図に似ているなと思いました。一年という大きな枠組みで私の心情を見つめると、浮き沈みが大きい波で表すことができるが、実はその大きな波の基には、一日一日、もっと言ってしまえば、一時間、一分、一秒単位の小さな浮き沈みの繰り返しが存在していて、その小さな波で大きな波を描いている。
「きれいな整った正弦波のみを周期的に繰り返した、いわば理想の周波をつくると、その音はきれいな言語になるどころか、ブザーのように聞こえてしまう。」という話から、私が交流に参加する際、「現地の音」にこだわる理由がわかったような気がしました。電子辞書の発音は私にとっては嘘の音で、やっぱり機械の音はおかしな音のように聞こえるし、私が交流に参加するとき、そこの現地で話されていることばをゲットできるようにということにこだわる理由の裏付けにもなっているなと思います。

また「ちょっと安定なように見えても、それは、見る範囲によって話は変わる。」この感覚はまさにことばの境を決めるときの感覚と同じであると感じました。
人間のことばというのは、ちょっとの揺れ・揺らぎで、あっという間に違うことばに変化する。その言語を方言とするのか外国語とするのかは、そのことばを見る範囲による。一度、ある言語として確立してしまうと、まるでその言語は一貫して他の言語と違う言語の枠としてとらわれがちだけれど、実は少しの揺らぎが加わり、その言語の安定が崩れれば、あっという間に違う言語になってしまうのではないだろうか。こう思いました。
同時に、藤村先生が最後の方にお話ししてくださった、「安定と不安定は表裏一体」というお話にも繋がりました。つまり、大枠が同じで、つまり共通の正弦波を持っていながら、様々な大きな変化を描く世界の中で、共通がある他の物と比べることによって、自分を確立し、新たな物事を確立していくのである。言語も同じで、共通の基を持っているから、どんな言語でも同じ人間の言語として認識することができる。もしかしたら、ことばの正弦波も存在しているのかもしれない。ことばの正弦波が存在しているということが証明できたならば、人間が話すことばは全て同じであるという基本理念の筋が通る。そして、ヒッポが実施している多言語活動は、日常的にたくさんの音の揺らぎを同時に耳にしているため、ことばの正弦波をゲットするのがうまく、たくさんの音の中から、抽象化する術を身体で知っているため、結果的に新しいことばをゲットするのが早いという結果に繋がるのかもしれない。

「言語情報は右耳で、音楽情報は左耳で聞くのが聞きやすいとされている。」
私のウォークマンは左からベース系、右からはメロディが聞こえるようになっている。左右の脳の役割を考えて、あえて左右別の役割を振り分けているのかもしれないけれど、私はこの聞こえ方を心地よく感じない...なぜだろうか。もしかしたら私の中には、音楽情報と言語情報に境がないのかもしれない。ヒッポのCDは私にとっては音楽と同じであり、言語情報の中に漂うことは、いろいろなリズムの中に漂っている感覚に近い。

人間は、一度見たことのあるものしか見えないとか、一度聞いたことのある音しか人間には音として聞こえてこないという話を聞いたことがある。知っている音しか聞こえてこないし、見たことのあるものしか見えてこないと思い込んでいるため、自分の知らない音や知らないものは耳や目に入ってこないのではないか。これは、非対称な顔に気がつかなかったり、鏡の中の自分が左右は入れ替わっているのに、上下が入れ替わっていないことには違和感を感じないのと同じ感覚である。メタ活をするときも、空耳に聞こえてしまうときというのは、自分の知っている音と重ねてしか聞こえないからなのかもしれない。だからこそ、たくさんの言語の揺れを耳で実際に聞いて、口で実際にまねしてみることが、より多くの言語を自分のものにするための重要な鍵になっていくのでないだろうか。

人間は結局は経験値によって物事を解釈しているのだなと思った。だから、皆の顔が違ってみるし、言語だって違うものに聞こえているだけかもしれない。しかし、その中に在る正弦波をみんなが共通認識しているため、全く違うものになることはない。これが、チョムスキーの言う“生成文法”?さかちゃんの“人間は言語的存在である”?
もっと深い話をしてくださったのかもしれないけれど、今の私なりの解釈の仕方で、先生のお話を楽しく聞かせていただきました。