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ヒッポの活動を応援してくださっている先生方

「時間、空間そして人間」対談:赤瀬川 原平-榊原 陽

赤瀬川 原平

(あかせがわ げんぺい)

作家・画家
言語交流研究所 理事
トラカレ研究協力者

2002年ひっぽしんぶんNo.7

コアがくっきりする実感

赤瀬川:榊原さんと知り合ったのはもう30数年前。榊原さんはその頃、渋谷で仕事を始めておられた。僕は外国語はからっきしダメなんですが、その頃から面白いことをやってるなぁ、って思っていました。

榊原:あの頃からずっと同じことを考え続けているだけですよ。

赤瀬川:榊原さんの「多言語」とか、「ことばは波である」とか、「自然習得」といったことばへの試みは初めてのことですよね。そういった初めてのことっていうのが、僕は大好きなんです。頭の中にいろんな国のことばの種類が増えるほど、ことばというもののコアがしっかりしてくるって話、なるほど、と思いました。僕は新しい世界にぶつかると、大体構造的に同じだ、と感じられる時にわかるんです。ことばだけじゃなくて、例えば僕は小説にカットを書くなんて思ったことなかったんですね。文章を書くのは好きだったし、絵を描くのもまあ生まれつき好きではあった。それが文章の世界と、絵の世界が交差すると、本当に何か表現とか認識のコアが少しくっきりしていく実感があるんです。

違いの中に普遍性を見つける

榊原:多くの人が、外国語はそれぞれが全然違う、という錯覚を持っています。ところが、多言語活動を通してみると、言語の普遍的な構造がくっきりとしてくる。今ヒッポは17のことばになっていますが、これからもうちょっと増やそうと思っています。きりのいい20くらいにまずはしようと。トルコ語、スウェーデン語、スワヒリ語なども導入しようと考えています。そういった新しいことばに触れた時、おそらくヒッポの人たちは、○○語に似てるな、という感覚から捉えていくはずです。

赤瀬川:僕は文章を書く時、たとえ話で書くことが多いんです。比喩、アナロジーです。そうするとむしろ、構造的な切り口でものを見るようになる。文章なんか初めは直感ですね。「たとえ」というのは通じる人には通じるんです。とんでもないたとえが見つかると、むしろわかりやすい。

榊原:一見違うものの中に普遍性が潜んでいる。

赤瀬川:それも実体験がないと、染み入ってこない。例えば僕にとって犬です。50過ぎまで犬がとても恐くて。ところが女房と娘が小さな捨て犬を拾ってきたんです。僕は無関係でいたんですが、1年くらい経って、台所に顔を出すとね、尻尾を振るんです。なんか波長があるんでしょうね。それでだんだん恐くなくなって。犬が恐くなくなると、犬に吠えられなくなったんです。それまでは犬とすれ違いざまに瞬間緊張してたようで。緊張するってことは戦闘体制の前段階ですから、犬も吠えるんです。でも犬に興味をもつようになると、犬の方も平気で無視して通り過ぎるんですね。相手に寄っていくと見えてくる、そういう面白さです。これがまたことばも通じるんじゃないかとも思うんですよ。ことばもわからないって決め付けていると、絶対にわからない。やっぱり、身をもってわからないと構造は見えてこないですね。身をもって体験すると構造が鋭く見えてくる。

ことばの名人

榊原:外国語が話せるからといって、その人にことばの特別な才能がある訳ではないんです。本来、どんなことばでも、人間であれば誰でもが当たり前にできることです。むしろあなたのように様々な局面から見事な形で「時空」っていうものを表現できる、そういう人が「ことばの名人」なんだと私は思います。 ことばができるということは相対的なものです。ここからができるというそんな一般的な基準のラインはない。ところが大人は外国語に向かった途端「ちゃんと」言えるようになったら言おうなんて思う。しかしこどもたちを見たらわかることですが、「ちゃんと」言えるようになってから言い始めるこどもはいません。重要なことは、音声は意味だということ。チビたちのまだことばになっていないような音声にも意味がある。意味がちゃんとわかってから話しなさい、なんて言ったなら、話せる子なんかひとりもいないはずです。こどもは大人のように「ちゃんと」という無駄なエネルギーは使わない。常にことばのプロセスはエネルギー最低値の道筋を通っていきます。あなたの本を読むといい文章だな、といつも感心するんですよ。エネルギー最低値ですね。無理して書いてない。

赤瀬川:いやあ、義理で書いたものはだめです。いろいろテーマを与えられてもただ書いたものは。何かちょっとでも自分で面白いと思うことが見つけられると、それをめぐっていける。そういう勢いがないとだめです。

ジカン、クウカン、ジンカン

榊原:「人間」ということばも考えてみると面白いです。日本ではこれを「ニンゲン」と読みますが、これを「ジンカン」と読んでみるんです。時間(ジカン)、空間(クウカン)、人間(ジンカン)。時間と空間の真ん中に「人間」があって、それを翻訳すると「ことば」なんだと思うんです。空間だけでも、時間だけでも人間は認識できない。ことばがなければ時間も空間もありません。

赤瀬川:ジカン、クウカン、ジンカンですか。面白いですね。

榊原:家に帰る途中カレーの匂いがしてくる。その匂いも、「カレー」ということばとして時間に解いて初めて「カレー」とわかる。カレーと聞くだけでそのものを思い描ける。でもカレーを食べたことのない人はその匂いを思い描くことはできません。大体の人が思い描けるなら、コミュニケートできる。

赤瀬川:物語ですよね。カレーと聞いた時に匂いがするってことは、何百回か食べた自分のカレーの物語なんですね。食べたことのないトリュフなんて言われても物語がないから。野球なんかも、まったく知らない球は打てないらしいです。初物に弱い。新しいピッチャーとか。いろんな球筋、カーブとか直球とか、球筋の物語を見切って打つ、その勝負をやっているらしいですね。

榊原:僕もあなたのいう老人力というのが相当ついてきたようです。

赤瀬川:僕も相当なものです。

榊原:自然は常にエネルギー最低値に落ち着いていくんです。ことばも人間も。僕もぼんやりと周りの人に教えてもらいながら楽しんでいこうと思っています。

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