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ヒッポの活動を応援してくださっている先生方

アガサを偲んで

赤瀬川 隼

(あかせがわ しゅん)

作家

2004年ひっぽしんぶんN0.18号

 仕事でちょっと確めたいことがあって、本棚から1冊の本を抜き出した。藤村由加著『人麻呂の暗号』(1989年1月新潮社刊)。用はすぐに済んだのだが、それから本を閉じるまでが長かった。何度か読んだこの本を、いつのまにかもう一度読み直していたのである。道草だ。いくつになっても道草は楽しい。時が経つのを忘れてしまう。道草をくいながら僕は、この本を作る過程で原稿の読み合わせなどを手伝っていた頃のことを思い出していた。藤村由加とは、4人のトラカレの1期生の姓名から、それぞれ一字ずつを採って組み合わせたペンネームで、これからしてひとつの暗号である。万葉集に残る作者名のなかにはこういう仕組みのペンネームもあったのではないかという話も出た。

   榊原陽さんのいう、古代日本は多言語のくにであり、とりわけ地理的歴史的に密接な古代朝鮮の言語を無視しては万葉集は読み解けないという観点から始まったこの共同作業は、いわば、ことばの推理ノンフィクションを読み進む面白さがある。だから、読み出したら止まらないということになるのだが、推理ものにふさわしく、この本にはアガサと呼ばれる中年の女性がしばしば出没する。いうまでもなく稀代の推理作家アガサ・クリスティにちなむ。彼女はここというポイントで出てきて、若い藤村由加を叱咤し、貴重な示唆を与えて姿を消す。まことに恰好いい。だてに齢は取ってないわけで、学生時代から興味を抱いていた記紀万葉に多言語の光を当てて開花させ、常に藤村由加の先を行き、ときには藤村由加に青息吐息をつかせる。それでいて決して知識をひけらかしたり押しつけようとせず、ヒントを与えた後は藤村由加が自力で気付き、解を発掘発見するまで待つのだった。

 アガサこと中野矢尾、ヒッポファミリークラブ創設以来のフェロウで、トラカレ発足と同時にシニア・フェロウとしても講義を受け持った。藤村由加は、『人麻呂の暗号』に続いて、『額田王の暗号』(90年)、『枕詞の暗号』(92年)を続々と上梓し、5年後の97年には満を持して『古事記の暗号~神話が語る科学の夜明け』を出した(いずれも新潮社刊)。このいずれにも、アガサは颯爽と登場する。颯爽とはしているが、常に目立たぬように控え目に。そして藤村由加を叱咤し示唆を与えるために出没する回数が、徐々にだが減っていた。藤村由加の自立と成長の度合いに応じたものだろうと思っていたが、それだけではなかった。『古事記の暗号』が世に出てまもなく、中野矢尾さんが入院したということを聞いた。そして99年4月に中野さんは永眠された。

 僕らが生まれた時代、一般の家庭では、赤ん坊はたいてい自宅の畳の上で生まれた。僕も僕のきょうだいも皆そうだった。そのとき家に来てくれる人を、「おさん」といった。必ずしもお婆さんではなく、中年の人が多かった。今では「助産婦」というのだろうが、語感もイメージもまるで違う。 「そろそろ・・・」という知らせを受けて家に来てからも決してあわてない。万事に余裕があり、産婦だけでなく、家のなかで緊張している家族たちを無言のうちに落ち着かせる。そうこうするうちに、子供は寄りつけない奥まった部屋から、けたたましくも元気な産声が聞えてくるのだった。

 唐突だが、アガサこと中野矢尾さんは、藤村由加が産声を挙げたときのお産婆さんではなかったかと思う。お産婆さんが、医者ではないけれども医者に負けない医術を備えていたように、中野さんは、学者ではないけれども、並みの学者が及びもつかぬ科学的な知識と洞察力と、何よりも人格を備えていたと僕は断言できる。そして、中野さんは藤村由加のお産婆さんであったと共に、育ての親でもあったと思う。その役割を彼女に託したのが、祭酒こと榊原陽さんである。『人麻呂の暗号』の巻末に「アガサからの手紙」が載っている。その書き出し。

「万葉集というきな歴史の中を、今日まで手さぐりで旅をしてきましたが、この本はそんなあなた達のささやかな、しかし精一杯の旅行記だといえるでしょう。しかし旅行記を書き終えたことで、あなた達の旅が終わったわけではありません」  そして末尾には、 「あなた達の旅行記に、私の小さな旅を重ねてみました。参考になれば幸いです。若いあなた達を見ていると、いつも故郷は未来にあるのだなあとつくづく思います。近々またお会いしましょう。アガサより」  今読み返すと、この手紙は若い人たちへの遺書でもあったと思う。「若いあなた達」とは、今のトラカレの学生諸君でもあり、それに続くヒッポのこどもたちでもある。

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