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活動内容

大塚 淳


大塚 淳
科学哲学/ZEN大学教授
(一財)言語交流研究所 協力者

⚫︎「良く考える」ために必要なこと

私は哲学、特に科学哲学という、文系と理系の中間みたいなことを専門にしています。
哲学というと、一人で書斎に籠もって小難しいことを考えてる、というイメージがあるかもしれません。しかし実際の哲学は、もっと会話的で、言語的です。

そもそも哲学の始祖であるソクラテスは、一冊も本を書かず、アテナイの広場(アゴラ)で様々な身分・立場の人と対話するなかで自身の哲学を展開したのでした。弟子のプラトンが残したその対話編を読むと、哲学とは、漫画に出てくるような老賢者が一方的に知恵を授けることでではなく、ダイナミックで双方的な会話のなかで生まれるものなのだ、ということがよくわかります。

現代に生きる我々は、思考というものは個人の中で原則的に完結するのだと考えがちです。我考える、そして考えたものを喋る、というように。
しかし本当はそうでないのかもしれない。むしろ「考える」ということは、個人の中ではなく、対話という場で起こることなのかもしれない。

そうだとしたら、「良く考える」ために一番重要なのは、個々人が頑張って勉強することよりも、一緒に話して、考えてくれる仲間を作ることなのかもしれません。そう、ヒッポのファミリーのように。

⚫︎ヒッポに育てられた私

私は小学校のころからヒッポに参加していて、半ば「ヒッポに育てられた」ような人間だと自負しているのですが、哲学者としての自分の道程の出発点は、実はヒッポのファミリーにあったのではないか、と半分冗談、半分真面目に考えています。

哲学で重要なのは、「考えること」自体よりも、「考えを言語化すること」です。あるいは哲学者によっては、この二つは結局同じことなのだ、とまで言うかもしれない。

ともかく、あくまで日本語や英語などの自然言語を用いて思考を展開する、というところに、数学や他の科学とは異なる哲学の特徴があります。ただしこれは、言葉を雄弁に操る、というのとはちょっと違う。雄弁な言葉は、ときに自分が本当に考えていることを裏切り、横滑りしてしまいます。むしろたどたどしくても良いので、少しずつ、自分自身の言葉で、曰く言い難い事柄を表現していく、そういうところに哲学の妙味があるのだと私は考えています。

ヒッポには、別に流暢でなくても良い、理路整然としてなくても良い、何語でも良い、むしろ全部身振り手振りでも良い、とにかく何か自分の思ったことを話す、そうすると仲間がそれを興味津々に聞いてくれる、という文化があります。少年時代の私も、そうした環境の中で、のびのびと自分の思いの丈を語って、そうすると周りの人たちが真剣に聞いて、思ったことを語り返してくれる―そのような会話の中で、自分の考えが育まれてきたのだと、今では思っています。

私の場合は、もともと「考えること」に関心があったのでしょう、なのでそうした会話のフィードバックは自ずから、自分の中に哲学的な関心を生んでいきました。しかし人によっては、それは「感じること」や「話すこと」、「歌うこと」、「体を動かすこと」かもしれない。

とにかくそれが向かう先はどこであれ、まさに今、あなたが思っていることに興味がある、それを聞かせてほしい、という人の輪があるということは、とても貴重なことだと思います。

⚫︎ヒッポにとっての「ことば」

そう考えると、ヒッポにとってことばとは何なのだろう、と思うときがあります。一般的な言語習得メソッドの目的は、もちろん言葉を話せるようになること、つまり言語が目的です。一方ヒッポにおいては、むしろ言語は手段で、本当の目的は人、であるようにも思える。でもそちらのほうが、言語本来のあり方に忠実な態度なのかもしれません。

というのも言語というのは結局のところ、他者とのコミュニケーションの手段であって、本当の関心事は常にその対話相手であるはずです。となると、言語というものは、本来の目的に忠実であればあるほど、言語自体は正直「どうでも良い」ものにならざるをえない、そんな逆説的な性格を持っているのかもしれない。

だからひょっとして榊原さん(ヒッポファミリークラブ創設者)も、本当に重要なのはことばではなく、人なんだ、なんて思っていたりしたんじゃないか。ご存命だったら、一度聞いておきたかったな、と思っています。